備忘録

文字書きの備忘録

言語化してみる。

fuhouse.hatenablog.com


この記事を読んで、今までもやもやしていたことが言語化できたので、思考整理のために書いてみる。


今まで、これ系の話題(男性向け作品に対して女性が意見する)を見る度に毎回盛大にもやもやしてきた私は、
『楽しみ方が違うからなんだろうなぁ』
『性癖が違うんだろうなぁ』
『私はどっちかというと男側目線で楽しむ人間だからなぁ』
という感じで、『考え方が違うから』理解できなくてもやもやするんだろうなぁと思ってた。

でも、こう、TLでこの記事を読んだ人の意見(っていうほどでもないけど。おおむねは同意系の一言感想みたいなの)を読んでて、それを同意する人たちを見てて、ちょっと待てよ、と思った。

というのも。なんだろう、こう、ざっくり言ってしまえば『好きなキャラが解釈違いの行動を起こしてもにょってる』わけで、『公式との解釈違いを起こしている』わけで、だからもやもやしてなんだかなーっていう気持ちがあったところにもっともらしい大義名分の理由を見つけて「そうそうこれなのこれ!これがなければいいのにね!」って、自分の気持ちを正当化してる。ように見える。
いや、正当化というのも少し違う。この記事を書いた方のような感覚を持ってる人たちからすればこの感覚が当たり前で、それがその人たちにとっての普通だから、その普通を通すための理由を探して、当てはめて、世界に発信してるわけだ。
「だからこれが間違ってる!私が否定的な気持ちを持つのは間違ってない!」って。

もちろんジェンダー的ななんらやかんやらというもやもやがあるのも本当なんだろうし、そういう意味でサンジくんの『女性“性”正義主義』にもにょるのも嘘じゃないんだろうし、別にその感覚を否定したいわけでもないんだけど。

私が一番もやもやするのは、『作品に対してもやもやしたこと』を『書いた本人自身の考え方の否定』に繋げてること。かなぁ。
素直に『この展開は好きじゃない』『この設定は好まない』じゃダメなんだろうか。だめなんだろうなぁ。今まで好きだったから余計に、『好きだったのに』っていう思いがある。
『これからも純粋に好きでいさせてほしかったのに』『そうさせてもらえなかった』っていう、期待を裏切られた悲しみがあるんだと思う。

私はONE PIECEは単行本派なんだけど、ドレスローザ編に入ってから『これ絶対長くなるから完結してから読もう!』って思って完結したところまで買っただけでまだ読んでないっていう知識しか持ってなくて、愛情とか熱情とかはやっぱり現行で好きな人や創作してた人たちや、まぁなんやかんやそういう人たちに比べれば低いと思う。作品として楽しんでる以上の愛は、そこまでない。(かと言って愛がないわけじゃない。普通に大好き)
だからこそ思うのが、『好きだった作品』『好きだったキャラクター』が『自分が好きだった形ではなくなってしまった』ことへの『悲しみ』を、どうして『現実に存在する人』への『憎しみ』や『否定』に変えてしまうんだろう。ということ。
こういうたちが抱いているのは、尾田先生の考え方の否定でも嫌悪でもなく、純粋な一ファンとしての悲しみじゃないのかな。
『こうしてほしかったのに』『ここが好きだったのに』→〔そうじゃなくなってしまった〕
っていう期待への裏切りが、その悲しみが、そっちに向かっているのであって。

女オタクの間ではしょっちゅういろんな討論が催されてる。最近だととうらぶとか。(とうらぶはまだまだ熱い)
他にもあるかもしれないけど私の周りで見かけるのはこのジャンルが一番多くて、そういうときに同時に回ってくるのは『嫌なら見なきゃいい』『嫌な思いをしたからって、それを創作者にぶつけるのは筋が違う』みたいな意見。
人の趣向なんて星の数ほどあるんだから万人に受け入れられるなんて不可能で、だから嫌う人の意見に怯えるよりも好きでいてくれる人の言葉に耳を傾けようよ。嫌なものを見たらその分好きなものを見て相殺しようよ。みたいな、まぁ、そういう意見が回ってくる。
うん、オーケー、それはとてもわかる。その通りだとも思う。じゃあそれを、例えば今回のONE PIECEに置き換えることはできないんだろうか。

作品として、ONE PIECEが受け入れられなくなってしまったのはわかった。その理由を創作者に向けるのは、同じなんじゃなかろうか。
あっちは商売で、こっちは同人。だから違う?んだろうか?やってることは同じ創作で、根本が違うようには思えない。
同人作家が『創作することが好きで』活動してるのと同じように、尾田先生も『ONE PIECEを描くことが好きで続けてる』んじゃないの。もちろんその裏では大人の事情が蔓延ってるのかもしれないけど、でもそれだけの理由だけじゃあれだけの壮大な世界は作り出せないし描き出せないと思う。表現できないと思う。ここまで世界的な人気作品にならなかったと思う。

なんだろうなぁ。例えば、とうらぶの女審神者ブーム到来の際にタグ付け云々がいろいろ問題に上がって、そういうときの反論(は語弊があるかも。主張、かな)として見かけるのが、
「自分が嫌いなものを見たくないために、それらしい理由を並べてるだけでしょ」
「要は夢(NL、オリキャラ創作)が嫌いなんでしょ」
ってことで、やっぱりそれはそうなんだと思う。だけど、自分がなにかを嫌ってることを認めたくないのか、嫌いや苦手を持つことを悪とする風潮がそうさせるのか、「私に嫌いと思わせる存在が悪い!」という意識があるんだよね。
だから、「私はこれが嫌い」「私はこれが苦手」という感情から目を背けて、尤もらしい理由を並べて、自分の中でそれらの感情が悪だから、それ以外の“正当性”を探そうとしてる。

今回のこのサンジくん云々っていうのもそうなんだけど、私が疑問に思うのは、『どうして作品と中の人を繋げて考えるんだろう』っていうこと。
普段、うーん、この話題以外で。いろんな作品を見てると思うけど、そんなに常日頃から作品と中の人を必ず関連付けて考えて読んでるものなの?
もちろん、漫画や小説っていう媒体における表現は、創作世界で人間を人形遊びみたいな感じで、要は自分の意思で動かしてることになるので(意識的でも無意識的でも)作品の中に『中の人の考え方』っていうものを感じ取って、それが合わないな、って思うことはあると思う。
でも、そんな毎回、すべての作品に対してまんべんなく思ってる?
多分、「この作品好きだなぁ」って思う作品に対しては、そこまで中の人のことを意識しないんじゃないかなぁ。すごい嫌い!!とか、すごい好き!!とか、感情がどちらかのベクトルに偏ったときに、中の人が出てくるんじゃない?
(中には必ず創作作品の中に中の人の価値観を見出して楽しんでる、っていう人もいるのかもしれないけど)
多くの場合は、自分の感情の問題で、中の人がどうこうではないと思うんだよね。
『好き』『嫌い』が生まれて、初めてそれを産み出した作者に目が行って、その人自身を知って『ほらやっぱりね』ってなるんだと思う。好きでも嫌いでも。

だから、『自分の感情から生まれた感想を、自分以外のなにかのせいにする』っていうのが、もやもやするんだなぁ…。

この一文のためにいろいろ自分の考えを正当化する発言を繰り返してしまった。けどせっかく書いたから残しておく。
私もやりがちだけど、『否定』と『怒り』の影には必ず『悲しかった』っていう思いが潜んでるんだよね。
傷つけられた、傷付いた、悲しい、っていう思いが見えなくて、怒りを覚えたり、それを生み出させた存在を否定する。
でもそれじゃ根本的な解決にならなくて、いつまでももやもやし続けるままで、ずっとそれを抱き続けてしまう。
だから、そういうことに気付いていけたらいいなぁと思う。私自身がなにかに否定的になったとき、憤りを感じたとき、その影には傷付いた自分がいる、っていうこと。それに気付くだけで、結構否定とか怒りは落ち着く。

今回私は、ONE PIECEという作品が七十何巻と買い揃える程度には好きなので、そのONE PIECEを否定する声が悲しくてこの意見を書きました。
ついでに、なるほどそういう意見もあるのか…。なんか寂しいな…。とも思った…。
でも上でも言ったけど万人に受ける作品なんてないもんな…それは仕方ない。けど、好きな作品は誰かにとっても好きだとうれしい。


ちなみに個人的にはサンジくんの『女性“性”正義主義』の徹底ぶりはとても好き。W7で「おれは死んでも女は蹴らん」って自分の正義を貫き通したところはマジでかっこいいと思う。
ONE PIECEという世界観において、力が強い者が蔓延り、弱者は淘汰される世界で、力のない者=弱者は庇護の対象になるし、そういう意味で女性は守るものとして認識されるのは変なことじゃない。
特にONE PIECEの世界では、男女の物理的な力の差というものを描写してる。ゾロが出てきたときのくいなちゃんや、たしぎちゃんもそう。『自分が女として生まれた』時点で生物学的な落差があることを認めてる。それを認めた上でもがいてあがいて上に上り詰めてるからかっこいいんだ。
この概念があるからこそ、ONE PIECEの世界に生きる人たちの中に女性=弱いもの、守るもの、という価値観があって当然だし、というか実際描写されてるから、サンジくんの女を守るの徹底ぶりには本当に尊敬する。

あと、カマバッカ王国でサンジくんが彼(彼女?)らに拒絶反応を示していた点も、この辺彼の『女性“性”正義主義』に基づいてるなぁと思う。
サンジくんは自分が男という性を持っているからこそ、女という性に惹かれて、女という性を持つ、もしくは男として思う女という性を重んじてる。つまり女という外的要素を好んでる。(ように感じる。美女に惹かれるところとか)
カマバッカ王国は所謂『オカマ』な人たちの国で、『オカマ』を調べると『身体は男性で心は女性』とか『女装をしている人』とかが意味として上がってくるんだけど、どっちにしてもサンジくんの『女性“性”』に当てはまらないんだろうなぁ、もしくは『女性“性”』をある種信仰しているからこそ、受け入れられないんだろうなぁ、という気がしてる。
自分の中に確固たる『女性“性”』という偶像がある。だからこそそこに当てはまる全てのものを、それこそ神を讃えるがごとく崇拝する。それがサンジくんの『女好き』という性格なのかなぁ…なんて思う。
そう考えると、『オカマ』という、『男』でも『女』でもなく『オカマ』という性に生きる彼ら(彼女ら)の性は、サンジくんにとっては理解しがたいものだったのかもしれないし、【『女』ではない】というだけの純粋な理由だったのかもしれないし、それはわからないけど。理解しがたいものに拒絶反応を見せるのは、人間誰しも同じだよね、と思う。
それが、女好き“だからこそ”より顕著に表れたのではないかなぁ…。

と、私は思っている。ので、あのエピソードは私はとても好き。です。


ここで好きを主張しているのは、否定意見があるんだから好きの意見があってもいいじゃなーい、っていうやつであって、とくに元記事を叩きたいとかそういうのではなく。
ただ、「あれはちょっと」と納得いかない人もいれば、私のように考えて納得する人間もいるよ、って言うのが書きたかっただけです。
だって私は好きだから、否定意見を見たまま、その同意意見を見たままでいるのは、私の好みを否定されたことのようで、ひとりで勝手にもやもやしてしまうから。
でもこれを書くことによって反対意見の人たちをもやもやさせてしまうんだろうなぁ…ごめんね。


漫画の世界はファンタジー。ファンタジーだからこそ、そして対象が少年であるからこそ、より『わかりやすく』デフォルメされた価値観、をわかりやすく描いたものが、ONE PIECEなんだと思う。
そして、良くも悪くも、『少年』というフィルターを通して読まれることを前提に描かれている作品を、そのフィルターを通さずに見た上で声高らかに意見を述べることは、創作者の意図に反したことなんだろうなぁ。

『少年』ジャンプ、という名称の雑誌で、『少年』を謳っているものを、『少年』ではない人たちが手に取り、見て、それを踏み荒らしていくことは、『ここから先は少年向けの遊び場ですよ』って書いてある公園に土足で入り込んだ上に『こんな遊具つまらない!楽しくない!!私向けの遊具を置いて!!』って声高らかに叫んでいるように見える。
立て看板、ちゃんと読んだ?ってなるね。私にはそういうことのように見えるので、作者が『少年向け』の雑誌で『少年向け』の作品を書いているのに、『少年』ではない人たちが『少年』フィルターではない価値観で意見をぶつけるのは…やっぱり…うーん、なんか違う気がする。尾田先生は別に、『全年齢、全性向けの話』を描いているわけではない…のだろうし…。
休載するとき「少年の2週間は長い」みたいなこと言ってたらしいから(Twitterで見かけただけだから詳しくは知らない)、尾田先生のターゲットは少年だよね?じゃあ少年以外の人たちっていうのは、「読むのは勝手にどうぞ」ってだけで、意見するのは…違うように、私は感じるな…。そもそもターゲット層ではないのだから、意見が通らなくても当然では…。
同じように青年漫画を読んで否定してる女性を見ても思う…あなたは青年ですか?って。それは女性向けじゃなくて男性向けだよって。
意見してないとは言わないでほしい。「こうしてくれ!!」って言ったら、それが本人に直接でなくとも、何らかの形で目に入れば意見したのと同じことになる。実際にはもっと歪曲された状態で伝わるかもしれない。

いつも自分たちが女性向けで創作活動してるときは「女性向けです!!」って主張するのに、自分が消費者になると男性向けに飛び込んで「女性である私の価値観に合わない!!」って主張するのはなんだかおかしい。
自分たちは女性向けで活動してることを主張して、そのテリトリーに部外者(男性やジャンル外の人)が踏み込んで来たら「入って来ないで!!」って言うのに、自分たちはずかずかと入っていくの?そして踏み荒らしていくの?自分たちは対象外なのに。

やっぱり私が違和感を感じるのは、この辺だな。自分たちがやめてほしいと主張していることをやってる。
声高らかになる前に、その辺を一度、考えないとなぁ、と思う。
自分がやられたらどう思うか?多分多くの創作してる女性オタクの皆さんなら、一度は経験あるんじゃないかな。自分が当事者じゃなくても、見たことあるんじゃないかな…。

私もこういうことをやりがちだから、言語化して、あ、気をつけなきゃな、と思うのでした。

おしまい。